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江戸時代後期と化政文化

江戸時代後期と化政文化

①商業が発達して都市の人口が増加し、農村の人口が減少して農業は衰退〈すいたい〉していった。商人は豊かになるが、年貢米〈ねんぐまい〉を収入とする武士は貧困〈ひんこん〉化し、幕府の財政も苦しくなった。それを立て直すために三つの改革が行われた。徳川吉宗〈とくがわよしむね・8代将軍〉による享保〈きょうほう〉の改革(1716)、松平定信〈まつだいらさだのぶ〉による寛政〈かんせい〉の改革(1787~1793)、水野忠邦〈みずのただくに〉による天保〈てんぽう〉の改革(1841~1843)である。いずれも農村復興と倹約〈けんやく〉などによって封建制の再強化をめざすものであったが、大きな時代の流れを変えることはできなかった。

また、1772年に老中〈ろうじゅう・将軍の下で政務をまとめて主宰する役職〉となった田沼意次〈たぬまおきつぐ〉は、商業を積極的に奨励〈しょうれい〉して財政再建を図〈はか〉った。だがその時期は、幕府と商人の結びつきが強まって賄賂〈わいろ〉が横行〈おうこう〉するなど政治腐敗が進んだ。更に天明の大飢饉〈だいききん〉(1782~1786)によって財政が破綻〈はたん〉し、田沼意次は1786年に失脚〈しっきゃく〉した。

②徳川家斉〈とくがわいえなり・11代将軍・大御所と呼ばれる〉が実権〈じっけん〉を持っていた時代(1793~1841)を大御所〈おおごしょ〉時代という。この時代は文化(1804~1818)・文政(1818~1830)年間と重なるので、この時代を中心とした江戸時代後期の文化を化政〈かせい〉文化という。

十八世紀半ば以後、文化の中心が上方〈かみかた〉から江戸に移っていく。江戸の町人(中小商工業者)が文化の担〈にな〉い手となり、地方との交流も盛んになった。文学・芸術では滑稽〈こっけい〉・愛欲を主とした遊戯〈ゆうぎ〉的態度や享楽〈きょうらく〉的・退廃〈たいはい〉的な傾向が強まるが、学問・思想面では科学的・実証的精神が発達し、社会に対する批判的精神も目立つようになった。

ア  国学<こくがく>

古典の研究を通して純粋な日本固有の思想を研究する学問。復古<ふっこ>主義(儒教・仏教の影響を受けない上代人の精神に立ち戻ること)を主張する。

① 元禄時代に古学の影響などで古典の実証<じっしょう>的研究が発達し、特に契沖〈けいちゅう・1640~1701〉は万葉代匠記<まんようだいしょうき>」(万葉集の注釈)などを著して、それまでの道徳的解釈を排除〈はいじょ〉し、国学の先駆者〈せんくしゃ〉となる。

② 荷田春満〈かだのあずままろ・1669~1736〉:『古事記』『日本書紀』の研究を通じて古代の精神を明らかにしようとする。『創学校啓〈そうがっこうけい〉』。(1728)を徳川吉宗〈とくがわよしむね・8代将軍〉に献呈して国学を教える学校の創設<そうせつ>を願う。

③ 賀茂真淵〈かものまぶち・1697~1769〉:「万葉集」の研究を通じて上代人の「高く直〈なお〉き心(高貴で純粋な心)」を理想とし、『国意考<こくいこう>』(1765頃)で復古主義を主張して国学を確立した。

④ 本居宣長〈もとおりのりなが・1730~1801〉: 『古事記伝』(1798完成)等の研究を通じて、私心のない古代人の心や政治のあり方を理想とする古道を提唱<ていしょう>する。

また、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』(1799)で、文学の本質を「もののあはれ(自然な人間性が自然や人事の諸相に触れたときに生じる情趣)」を知ることにあるとして、道徳・善悪とは別次元の価値を持つとした。

⑤ 平田篤胤〈ひらたあつたね・1776~1843〉:国学を神道と結びつけて復古神道〈ふっこしんとう〉を創始し、尊王攘夷<そんのうじょうい>思想に影響を与える。

⑥ 塙保己一〈はなわほきのいち・1746~1821〉:数千の国書を集成し「群書類従<ぐんしょるいじゅう>」を編纂<する(1799~1822)。

⑦ 国学の意義

日本古典をありのまま理解しようとする態度が実証的研究を発展させる。

道徳にとらわれず、人間の自然な性質を重視する思想を生む。

尊王攘夷論に影響を与え、明治維新を生み出す原動力となる。

イ 蘭学〈らんがく〉(洋学)

① 洋学の先駆

新井白石:1708年に日本に潜入〈せんにゅう〉したイタリア人宣教師〈せんきょうし〉シドッチを尋問〈じんもん〉し、それをもとにして、「西洋紀聞〈せいようきぶん〉」・「采覧異言〈さいらんいげん〉」を著し、西洋の地理・風俗を記録する。

徳川吉宗〈とくがわよしむね・1684~1751・八代将軍〉:漢訳洋書の輸入を許可し、青木昆陽〈あおきこんよう・1698~1769〉、野呂元丈〈のろげんじょう・1693~1761〉に蘭学を学ばせる

② 洋学の確立

前野良沢〈まえのりょうたく・1723~1803〉・杉田玄白〈すぎたげんぱく・1733~1817〉らが1774年に「解体新書〈かいたいしんしょ〉」(オランダの解剖書「ターヘル=アナトミア」の翻訳)を出版し、杉田玄白が「蘭学事始〈らんがくことはじめ〉」にその回想を記す。

④ 洋学の発展

大槻玄沢〈おおつきげんたく・1757~1827〉:江戸に芝蘭堂〈しらんどう・蘭学の塾〉を開いて門人を育て、蘭学入門書「蘭学階梯〈らんがくかいてい〉」を刊行する(1788)。

稲村三伯〈いなむらさんぱく・1758~1811〉、最初の蘭日辞書「ハルマ和解〈わげ〉」を刊行する(1796)。

志筑忠雄〈しづきただお・1760~1806〉:「暦象新書〈れきしょうしんしょ・ニュートンの弟子ジョン・ケイルの著作の翻訳〉」によってニュートンの学説を紹介する(1802)。

伊能忠敬〈いのうただたか・1745~1818〉:地上の実測と天体観測によって「大日本沿海輿地全図」〈だいにほんえんかいよちぜんず〉を作成する(1821完成)。

ウ 教育の発達

①幕府の教育機関:1797年、湯島聖堂学問所を昌平坂学問所〈しょうへいざかがくもんじょ〉と改称し、朱子学による幕臣〈ばくしん〉の教育機関とする。また、1811年、蛮書和解御用〈ばんしょわげごよう・洋書の翻訳・出版機関〉を設置し、1855年洋学所、1856年蕃所調所〈ばんしょしらべしょ〉と改称し、洋学の研究・教育機関とする。

②諸藩:藩校〈はんこう〉を設置し、藩士〈はんし・藩の武士〉の子弟を教育。学問の地方流布を助長する。

修猷館〈しゅうゆうかん〉(福岡藩)・造士館〈ぞうしかん〉(薩摩藩)・明倫堂〈めいりんどう〉(名古屋藩)・弘道館〈こうどうかん〉(水戸〈みと〉藩)など。

③私塾:武士・学者・町人らによって開かれ、儒学・蘭学・国学などを講義する。

儒学など:中井竹山〈なかいちくざん・1730~1804〉らの懐徳堂〈かいとくどう・大坂〉

広瀬淡窓〈ひろせたんそう・1782~1856〉の咸宜園〈かんぎえん・大分〉

吉田松陰〈よしだしょういん・1830~1859〉の松下村塾〈しょうかそんじゅく・山口〉。

蘭学:シーボルト〈Siebolt・1796~1866〉の鳴滝塾〈なるたきじゅく〉

緒方洪庵〈おがたこうあん・1810~1863〉の適塾〈てきじゅく〉(適々斎塾とも・大坂)

福沢諭吉〈ふくざわゆきち〉(1834~1901)の蘭学塾(後に慶応義塾となる)

④庶民用の教育機関の普及〈ふきゅう〉

a 郷学〈ごうがく〉(郷校):藩士と庶民の教育機関。設置数は約四百。

閑谷〈しずたに〉学校(1668・岡山藩)

含翠堂〈がんすいどう〉(1717):摂津〈せっつ〉平野郷〈ひらのごう〉の豪農・豪商が出資〈しゅっし〉して設立した。

b 寺子屋〈てらごや〉:民間の庶民の初等教育機関。幕末までに一万五千以上設立される。日常生活のための読み書き・算盤〈そろばん〉を中心に教える。

c 心学舎〈しんがくしゃ〉:心学(石門心学)を教える道場。町人に人気があった。

心学:石田梅岩〈いしだばいがん・1685~1744〉が18世紀の初めに始めた庶民の道徳教育。手島堵庵〈てじまとあん・1718~1786〉らが普及させる。朱子学を基礎とし、神道や仏教を取り入れて、倹約や正直などの町人道徳を平易〈へいい〉に説き、商業・営利〈えいり〉の正当性を主張した。

エ 革新的思想の発達

① 伝統的思想への批判

安藤昌益〈あんどうしょうえき・1707?~1762〉:十八世紀半ばに『自然真営道〈しぜんしんえいどう〉』『統道真伝〈とうどうしんでん〉』などを著して、「自然世〈しぜんよ〉」を理想とし、現実の社会を「法世〈ほうよ〉」として否定する。

自然世:全ての人が平等に耕作して生活する無階級の社会。

法世:身分階級が存在し、武士・僧侶・商人が農民を搾取〈さくしゅ〉する社会。

富永仲基〈とみながなかもと・1715~1746〉:『出定後語〈しゅつじょうこうご〉』『翁の文〈おきなのふみ〉』等で、「加上説〈かじょうせつ〉」によって儒教・仏教・神道の思想展開を論じる。また、思想には国民性・民族性があることを指摘する。

加上説:後代に生まれた学説は、先行の学説を抜くため、より古い時代に起源を求め、複雑さを増していくという説。

山片蟠桃〈やまがたばんとう・1748~1815〉:『夢の代〈ゆめのしろ〉』で、唯物論的立場から、無鬼論(神仏・霊魂の存在を否定する説)を唱えて朱子学・仏教・神道を批判する。

② 経世〈けいせい〉思想

海保青陵〈かいほせいりょう・1755~1817〉:『稽古談〈けいこだん〉』で君臣の道も商売の道と同様であるとして、徳川社会の矛盾は商業資本主義的経済を発展させることによって解決されるとする。

本多利明〈ほんだとしあき・1743~1820〉:『西域〈せいいき〉物語』『経世秘策〈けいせいひさく〉』で重商主義〈じゅうしょうしゅぎ〉の立場から積極的な海外貿易論と国富〈こくふ〉の増進を説く。

佐藤信淵〈さとうのぶひろ・1769~1850〉:『経済要録』で産業振興のため海外通商の必要性や、全国民を国家機関に所属させて私営を禁じ生産を国家管理とする構想を説く。

③ 尊王攘夷論〈そんのうじょういろん〉

a 尊王論〈そんのうろん〉:水戸学〈みとがく〉や国学(特に平田篤胤の始めた復古神道)が、天皇崇拝を主とした尊王論を発達させる。

水戸学:『大日本史』の編纂事業のため水戸藩で歴史研究が盛んとなり、それを契機として起った学派。朱子学を中心に国学・史学・神道を総合し、天皇崇拝や封建秩序の維持を説く。

b 攘夷論〈じょういろん〉:十九世紀には欧米諸国のアジア進出が盛んになり、特にアヘン戦争(1840~1842)は危機感を高めた。1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリー(Perry)が開国を要求し、翌年幕府は日米和親条約〈にちべいわしんじょうやく〉を締結〈ていけつ〉して開国した。これによって鎖国〈さこく〉が終わり、貿易が開始されたが、それが物価を高騰〈こうとう〉させ、不満が高まって攘夷論が強まる。更にそれが水戸学者を中心として尊王論と結びつき、尊王攘夷論となる。

→ 尊王攘夷〈そんのうじょうい〉運動が全国に広がり、幕府の政策に対する批判が強まる。その中心となったのは薩摩〈さつま〉藩・長州〈ちょうしゅう〉藩などの下級武士であり、彼らの活動は1864年頃から倒幕〈とうばく〉運動へと発展していった。

オ 化政美術

①浮世絵の発展

a 鈴木春信〈すずきはるのぶ・1725~1770〉が、錦絵〈にしきえ・多色刷りの浮世絵の版画〉を創始(1765)し、18世紀後半から庶民の間で流行する。

美人画:鈴木春信、喜多川歌麿〈きたがわうたまろ・1753~1806〉

役者絵〈やくしゃえ〉:東洲斎写楽〈とうしゅうさいしゃらく・生没年不詳〉

b 天保期(1830~1844)から風景版画が発展する。

葛飾北斎〈かつしかほくさい・1760~1849〉:「富嶽三十六景〈ふがくさんじゅうろっけい〉」

歌川(安藤)広重〈うたがわ(あんどう)ひろしげ・1797~1858〉:「東海道五十三次〈とうかいどうごじゅうさんつぎ〉」

②他の絵画

a 文人画(南画):文人・詩人が余技〈よぎ〉(趣味)として描いた絵、水墨〈すいぼく〉淡彩〈たんさい〉で、色や形より余韻〈よいん〉や風格〈ふうかく〉を尊ぶ。十八世紀後半から池大雅〈いけのたいが・1723~1776〉、与謝蕪村〈よさぶそん・1716~1783〉らによって盛んとなり、化政期に渡辺崋山〈わたなべかざん・1793~1841〉、谷文晁〈たにぶんちょう・1763~1840〉、田能村竹田〈たのむらちくでん・1777~1835〉らによって全盛期を迎えた。

b 写生画:円山応挙〈まるやまおうきょ・1733~1795〉が客観的な写生を重んじ、西洋の遠近法を取り入れた円山派を創始する。また、松村月渓(呉春) 〈まつむらげっけい・1752~1811〉が円山派より分かれて四条派〈しじょうは〉を創始する。

C 西洋画:蘭学の興隆に伴って江戸後期に再興される。

平賀源内〈ひらがげんない。1728~1779〉、司馬江漢〈しばこうかん・1749~1780〉。

文章来源:华兴日本语(www.yalianedu.com)

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