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鎌倉文化

鎌倉文化(1192~1333)

源頼朝〈みなもとのよりとも〉は鎌倉〈かまくら〉を拠点〈きょてん〉として1185年、全国に守護〈しゅご・地方長官〉・地頭〈ぢとう・荘園の監督者〉)を置き、1192年、征夷大将軍〈せいいたいしょうぐん・武家政権の首長〉となって、封建制度〈ほうけんせいど〉による支配体制を作り上げた。頼朝が確立した武家政権を鎌倉幕府〈かまくらばくふ〉と呼び、鎌倉幕府が全国を支配していた時代を鎌倉時代と呼ぶ。源氏の将軍は三代目の源実朝〈みなもとのさねとも・1192~1219〉の死とともに途絶えてしまい、執権〈しっけん・政務長官〉を勤めていた北条〈ほうじょう〉氏が幕府の実権〈じっけん〉を握った。以後、執権を世襲〈せしゅう〉した北条氏によって政治が行われるようになったので、執権政治とも呼ばれる。

この時代は貴族による伝統的文化も存続していたが、一方で武士による文化が成立した。特に三代目執権の北条泰時〈ほうじょうやすとき・1183~1242〉が1232年に制定した「御成敗式目〈ごせいばいしきもく〉」は、最初の武家法として大きな影響を与えた。また、地方と中央の交流が盛んになり、文化の地方・庶民への普及が進んだ。

大陸ではチンギス・ハン(成吉思汗)によってモンゴル帝国が勢力を拡大し、フビライ(忽必烈)が国号を元として1279年に南宋を滅ぼし、中国を支配した。

宋・元の文化も伝来して、仏教や生活文化に影響を与えた。しかし、1274年と1281年に元軍の襲来(元寇〈げんこう〉)があり、鎌倉幕府が衰える原因となった。

ア 鎌倉新仏教

政治的・社会的動乱が続いて末法思想が広まったことと、武士・庶民の地位向上によって、新しい宗派が台頭した。浄土教の思想を発展させた念仏三宗(浄土宗〈1175年開宗〉・浄土真宗〈じょうどしんしゅう・1224年開宗〉・時宗〈じしゅう・1274年開宗〉)と、大陸の禅の宗派を伝えた禅宗(臨済宗〈りんざいしゅう・1191年開宗〉・曹洞宗〈そうとうしゅう・1227年開宗〉)、天台宗の法華経〈ほけきょう〉信仰を発展させた日蓮宗〈にちれんしゅう・1253年開宗〉に大別できる。

①法然〈ほうねん・1133~1212〉:専修〈せんじゅ〉念仏(どのような人でもひたすら阿弥陀仏の名を唱える口称念仏によってのみ往生できるという教え)を説き、浄土宗の開祖とされる。主著『選択本願念仏集〈せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』。

②親鸞〈しんらん・1173 ~1262〉:すべてを阿弥陀仏に任せることによって極楽往生が約束されるという絶対他力の信仰を説く。また人間の本質を、自力では克服できない罪悪を持つ悪人であるとし、悪人を救うことが仏の本願だとする悪人正機説〈あくにんしょうきせつ〉を唱えた。浄土真宗の開祖とされる。主著『教行信証〈きょうぎょうしんしょう〉』。また、親鸞の弟子の唯円〈ゆいえん〉が親鸞の思想をまとめた『歎異抄〈たんにしょう〉』がある。

③一遍〈いっぺん・1239~1289〉:念仏により、信仰心の有無や浄・不浄(身分の貴賎)に関わらず極楽往生できると説き、時宗の開祖とされる。踊り念仏(踊りによって無我の境地に達し阿弥陀仏と一体化することをめざす)を下層民衆に広める。

④臨済宗:1191年、宋から帰国した栄西〈えいさい・1141~1215〉が日本に伝え、『興禅護国論〈こうぜんごこくろん〉』を著〈あらわ〉してその必要性を説く。坐禅と、師から与えられた公案〈こうあん・問題〉を解決することによって悟りをめざす。貴族・武士に歓迎されて日本の禅の主流となった。鎌倉幕府の執権も臨済宗を支持し、北条時頼〈ほうじょうときより・5代執権・1227~1263〉は宋から蘭渓道隆〈らんけいどうりゅう・1213~1278〉を招いて建長寺〈けんちょうじ〉を建て、北条時宗〈ほうじょうときむね・8代執権・1251~1284〉は宋から無学祖元〈むがくそげん・1226~1286〉を招いて円覚寺〈えんかくじ〉を建てた。

⑤曹洞宗:1227年、宋から帰国した道元〈どうげん・1200~1253〉が日本に伝え、『正法眼蔵』〈しょうぼうげんぞう〉を著してその哲学体系を構築した。公案を用いず、只管打坐〈しかんたざ・ひたすら坐禅すること〉によってのみ悟りを開くことができると説く。

⑥日蓮宗:日蓮〈にちれん・1222~1282〉が「南無妙法蓮華経〈なむみょうほうれんげきょう〉」という題目〈だいもく〉を唱えると成仏できるという法華経信仰を説く。政治や国家権力より仏教信仰の方を高い次元に置き、『立正安国論〈りっしょうあんこくろん〉』を著して、法華経中心の政治を主張する。

イ 旧仏教界の動き

旧仏教の内部でも華厳宗の高弁〈こうべん〉(明恵〈みょうえ〉・1173~1232)、法相宗の貞慶〈じょうけい〉(解脱〈げだつ〉・1155~1213)、律宗の叡尊〈えいそん・1201~1290〉・忍性〈にんしょう・1217~1303〉らによって改革運動が進められた。

また天台座主〈てんだいざす・天台宗の代表者〉の慈円〈じえん・1155~1225〉は『愚管抄〈ぐかんしょう〉』を著して、歴史が道理によって展開していくという思想によって歴史を解釈し、後の史書に影響を与えた。

ウ 美術

①建築:大陸文化との影響関係で以下の様式に分かれる。

天竺様〈てんじくよう〉(大仏様):重源〈ちょうげん・1121~1206〉が、東大寺大仏殿の再建のために用いた建築様式。宋の江南・福建省の様式を取り入れる。重源没後は用いられなくなった。東大寺南大門。

唐様〈からよう〉(禅宗様):禅宗寺院に取り入れられた建築様式。宋の中央様式を取り入れる。禅宗の受容とともに日本に定着し、全国に広まった。円覚寺舎利殿〈えんかくじしゃりでん〉

和様〈わよう〉:平安時代以来の日本の建築様式。蓮華王院本堂〈れんげおういんほんどう〉。

折衷様〈せっちゅうよう〉:和様と禅宗様や大仏様とを混ぜた様式。観心寺金堂〈かんしんじこんどう〉

②彫刻:運慶〈うんけい・?~1223〉を中心とする慶派〈けいは〉の彫刻家らによって写実的な彫刻が盛んになる。東大寺南大門の金剛力士像(運慶・快慶らの作)・興福寺の天灯鬼像(てんとうきぞう・康弁作)・高徳院〈こうとくいん〉阿弥陀如来像(鎌倉の露座大仏)・蓮華王院の三十三間堂千手観音像(さんじゅうさんげんどうせんじゅかんのんぞう・湛慶作)・興福寺の無著〈むじゃく〉像・世親〈せしん〉像(運慶作)・六波羅蜜寺〈ろくはらみつじ〉の空也上人像(康勝作)・上杉重房〈うえすぎしげふさ〉像・東大寺俊乗堂の重源像。

③絵画:写実的な肖像画が発達する。

似絵〈にせえ〉:実際の人物を目前にして描く肖像画。藤原隆信〈ふじわらのたかのぶ・1142~1205〉の「源頼朝像」「平重盛〈たいらのしげもり〉像」。

頂相〈ちんそう〉:禅僧の間で行われる。師が自分の肖像画を弟子に与えたもの。

絵巻物:「男衾三郎〈おぶすまさぶろう〉絵巻」「平治物語絵巻」「蒙古〈もうこ〉襲来絵巻」

「一遍上人絵伝〈いっぺんしょうにんえでん〉」「法然上人絵伝」「春日権現験記〈かすがごんげんけんき〉」

④工芸:甲冑〈かっちゅう〉・刀剣製作の技術が進歩する。

宋・元の影響を受けて各地で陶器〈とうき〉の生産が始まる。加藤景正〈かとうかげまさ〉が宋から製法を伝えて瀬戸焼き〈せとやき〉(瀬戸物〈せともの〉)を始めたとされる。

文章来源:华兴日本语(www.yalianedu.com)

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