国風文化
时间:2016-02-23 来源:未知 作者:admin
国風文化(10世紀~11世紀)
894年に菅原道真〈すがわらのみちざね〉の意見によって遣唐使が廃止された。以後、貴族生活の中で大陸文化が消化吸収され、繊細〈せんさい〉で優美〈ゆうび〉な日本的美意識が発達する。
また、天皇の外戚〈がいせき〉となった藤原氏が権力を独占し、10世紀後半には天皇が幼い時に摂政〈せっしょう〉、成人後に関白〈かんぱく〉となって政治を代わりに行うという政治形態を確立させた。これを摂関政治〈せっかんせいじ〉)といい、十一世紀前半の藤原道長〈ふじわらのみちなが・966~1027〉・藤原頼通〈ふじわらのよりみち・992~1074〉の時がその全盛期である。藤原氏は全国に広大な荘園〈しょうえん→私有地〉を持ち、莫大〈ばくだい〉な税収を得ていた。しかし地方の政治は国司〈こくし〉などの地方官に任され、中央での政治は年中行事などが中心だった。
一方、地方の政治は乱れており、地方領主らは武装化して武士団を形成した。武士団は棟梁〈とうりょう〉と呼ばれる者を中心に連合し、大武士団となった。棟梁になったのは桓武平氏〈かんむへいし〉・清和源氏〈せいわげんじ〉など、地方に土着〈どちゃく〉した中流貴族である。
ア 仏教の展開
天台宗と真言宗が朝廷・貴族の支持を受けて勢力を伸ばすとともに、神仏習合を発展させた。また、浄土教〈じょうどきょう〉が信仰として広まったが、独立した宗派の形にはならなかった。
①本地垂迹〈ほんじすいじゃく〉説:神仏習合の発展によって成立した説。仏を本地(本体・本質)、神を仏の垂迹(影・現象)であるとし、神は権現〈ごんげん・仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現れたもの〉だとする。主として天台宗・真言宗の僧侶によって説かれた。
②浄土教:念仏〈ねんぶつ〉によって死後、浄土に往生〈おうじょう〉することを説く教え。中国・日本では一般に阿弥陀如来〈あみだにょらい〉がいる西方極楽浄土〈さいほうごくらくじょうど〉に往生することを説く。中国では東晋の慧遠〈えおん〉が開祖とされる。日本では円仁によって念仏が普及する。
空也〈くうや〉:10世紀に京で民衆に称名〈しょうみょう〉念仏(口に「南無阿弥陀仏〈なむあみだぶつ〉」という名号〈みょうごう〉を唱える)をすすめ、浄土教を広める。
源信(恵心僧都〈えしんそうず〉):『往生要集』(985)で「厭離穢土〈おんりえど・けがれた現世を厭う〉、欣求浄土〈ごんぐじょうど・浄土への往生を願い求める〉」を説き、地獄と浄土の様子を描いて、念仏によって往生する方法を示す。観想〈かんそう〉念仏(阿弥陀や極楽浄土の様子を思い浮かべることによって念仏を行う)を主とする。
末法〈まっぽう〉思想:釈迦の死後、二千年目から末法という時期になり、仏法〈ぶっぽう〉が衰え、社会に混乱が起こると考える思想。日本では1052年に末法に入ると考えられた。11世紀から社会不安が深刻になったため末法思想が流行し、貴族の間で浄土信仰が広まる。
末法:仏語。正法〈しょうぼう・釈迦の死後千年間。仏の教えが保たれ、正しい修行によって悟りが得られる時期〉・像法〈ぞうぼう・次の千年間。教えと修行は行われるが悟りは得られない〉に次ぐ時期で、末法には仏の教法だけが残り、修行も悟りもない時期とされ、一万年の間とする。
イ 建築・美術
①貴族は寝殿造〈しんでんづくり〉の邸宅に住む。→中央に寝殿(主人が住む)、東や西、北側に対屋〈たいのや・家族の住む寝殿〉、南はしに釣殿〈つりどの〉などを配置し、渡り廊下(透渡殿〈すきわたどの〉)などでつなぐ。建物内部は襖〈ふすま〉や屏風〈びょうぶ〉で仕切られ、そこに大和絵〈やまとえ〉が描かれる。また、貴族の男子は束帯〈そくたい〉、女子は十二単〈じゅうにひとえ〉という、華美〈かび〉だが非能率的な服装を用いた。
②寺院建築:浄土教の流行により、阿弥陀堂(阿弥陀如来を本尊〈ほんぞん〉として安置した堂)が作られる。法成寺〈ほうじょうじ・藤原道長が建立するが現存せず〉・平等院鳳凰堂〈びょうどういんほうおうどう・藤原頼通が建立〉
③彫刻:阿弥陀如来像(平等院鳳凰堂・定朝作)→寄木造〈よせぎづくり・仏像の各部分を別々の工人が制作し、それを寄せ合わせて一体の像とする〉によって仏像の大型化・大量生産が進む。
④絵画:阿弥陀来迎図〈あみだらいごうず・阿弥陀如来が往生する人を迎えにくる姿を描く〉が制作される。高野山聖衆来迎図〈こうやさんしょうじゅらいごうず〉
文章来源:华兴日本语(www.yalianedu.com)